益救神社

神社のご案内

【延喜式神名帳】
 大隅國馭謨郡(おおすみのくにこむのこほり)
 益救神社(やくのかみのやしろ)

  • 神社名:益救神社
  • 神社名カナ:ヤクジンジャ
  • 鎮座地:〒891-4205 鹿児島県熊毛郡屋久島町宮之浦277地図はこちら

御祭神

本殿 天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)〔火遠理命、山幸彦〕
   大山衹尊(おおやまずみのみこと)〔大山津見神〕
   木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)
   塩土翁尊(しおつちのおきなのみこと)
   豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)
   豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)
   玉依姫尊(たまよりひめのみこと)

境内社 奇盤牅尊(くしいわまどのみこと)
    豊盤牅尊(とよいわまどのみこと)
   

由緒

益救神社は、天津日高彦火火出見尊を御祭神として正祀する神社であります。
彦火火出見尊と申しあげる神様は、皇室の御系図でいえば、天照大神様の曾孫に当り第1代神武天皇の祖父に当るかたであります。即ち、次のとおりです。

天照大神 - 天忍穂耳尊 - 瓊瓊杵尊 - 彦火火出見尊 - 鵜葺草葺不合尊 -
第1代神武天皇・・・・第122代明治天皇 - 第123代大正天皇 - 第124代
昭和天皇 - 第125代今上天皇

 よく知られた海幸彦と山幸彦の兄弟の神様が、それぞれ仕事の道具をとりかえて海幸彦は山へ猟に行き、山幸彦は海へ魚釣りに行き、そして弟の山幸彦が兄さんから借りた釣り針を失って困っていると、塩推神が現れて龍宮城へ案内し、そこで鯛のノドにささっていた釣針を見つける話、あの山幸彦が益救神社の御祭神の彦火火出見尊です。そして、この時に尊をたすけてくれたのが、海神の娘、豊玉姫です。
 尊は龍宮城で三年間姫と暮し、豊玉姫に御子が産まれます。このお産にあたって、海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして産屋を造りますが、それがまだ葺き終わらないうちにお生まれになった勇ましい男の子が鵜葺草葺不合尊です。この鵜葺草葺不合尊が姨の玉依姫を娶り、お生まれになったなったのが神日本盤余彦尊、即ち神武天皇です。

②益救神社は御祭神として前記七柱の神々を奉斎申しあげておりますが、伝記には創立年代不詳とされているのであります。
 屋久島が初めて歴史に現われたのは第33代推古天皇の24年(616)に掖玖人が前後して30人、朝廷に貢物を献上した記録があり、第34代舒明天皇の元年(629)4月に田部連という者を掖玖島へ派遣され、島民の皇化顕著なる御鴻業を垂れ給うと伝えられておりますとおり、すでに聖徳太子の時代から帝都との交通が行われておりました。
 その後、遣唐使船の往復に伴って南の島々は大陸との航路上たいへん重要視されることになりますが、九州一の高峰宮の浦岳を頂き豊かな水と緑に恵まれた屋久島は、古くから航海者たちの重要な目印であり、停泊・給水地でした。島影によって航路を確かめ、寄港して嵐を避け、水や食料を補給したときの舟人たちのほっとした安堵感、救われたという喜びはいかばかりであったでしょうか。益救神社は一名「救いの宮」とも呼ばれ、また古来、益々救われますようにと願い、今後もますます救って下さる神様のお宮だという感謝の思いをこめて「益救」の文字があてられていることも頷かれるのであります。
 はっきりした記録としては、「延喜式神名帳」に「大隅国馭謨郡 一座 名神 小 益救神社」と登載されております。この「延喜式」と申しますのは、宮中における年中儀式や百官臨時の作法その他を詳しく記した公家法制の書で、第六十代醍醐天皇の延喜年間に勅命によって撰進し始めたのでこの名で呼ばれております。完成したのは延長五年(927)。弘仁年間、貞観年間に撰進されたものと合せて三代式といい、延喜式は前二式をも併せ採っており、全体五十巻より成っています。そのうち九巻と十巻が「神名帳」と呼ばれ、そこに登載されている神社を式内社と云い、現在の鹿児島県下には益救神社を入れて八社しかありませんでした。
奈良朝の初め、神祇制度がそなわるとともに、全国的に朝廷の崇奉にかかる官社を定め、これらの神社に朝廷から奉幣することとなり、そのために神名帳がつくられるようになったものです。これは第四十五代聖武天皇の天平年間にようやく整ったと言われておりますが、その後、追加修正などがあり、やがて延喜式神名帳として完成され今日に伝えられております。
益救神社はそうした古い次代から官社として優遇され、大祭典には朝廷から神饌幣帛料に班幣の儀が行われておりました。かつて朝廷より派遣された国司の政庁が種子島の島間にあり、益救神社の例祭には国司をはじめ郡領などがそれぞれ島間崎の遙拝所から拝礼の式をあげるなど、屋久・種子島両島民の鎮守の宮として崇敬を極め、大隅半島を考えに入れても、それらの代表となる高い格式をもっていたのであります。

③しかし、時代の変遷はまぬがれず、第103代後土御門天皇の御代には戦国動乱の世となって国司政庁も廃止され、屋久島は種子島家の所領となります。そして種子島時氏の法華宗を主体におく宗教改革によって本社も衰微荒廃の一途をたどり、古来の記録も失われ、ついに社殿も礎石を残すのみになったのであります。
 豊臣秀吉の朝鮮役後、屋久島は島津家の領地になり、藩政時代に入ります。
 こうして、貞享元年、島津藩士・町田孫七忠以という者が屋久島の宰領として着任し、益救神社の荒れ果てたありさまを見て大いに歎き、島民を説いて遺跡をもとめ、同2年(1685)、現在の社地に社殿を造営、ついにこれを復興させるに至ったと伝えられています。
 時代くだって文久2年(1863)、薩英戦争のあった年でありますが、時の藩主島津茂久公が藩政を改革し廃典を挙げるに際し、管内の神社を調べて益救神社の由緒と現状を耳にされ、ただちに小田原河内(藤原秀房)という神職を社司に任じ、翌年屋久島へ下したのであります。そして、当時この神社の社号が俗に「須久比ノ宮」「一品宝珠大権現」あるいは「三岳の宮」とさまざまに呼ばれていたのを旧に復し、「益救神社」と改め、島津久光公に手になる扁額を神前に掲げ、御霊代の神鏡もあらたに鋳造寄進されたのであります。慶応元年(1865)には社殿の改築もすすめられることとなり、6月より工を起し、翌2年4月竣工、官社の格式に違わない精巧な技術を施し、立派な申し分のない社殿でありました。
 このとき建築工事にあたったのは、宮大工棟梁 瀬島喜平次ほか10名、木挽5名、日曜雑夫4人の計20名が藩から下され他に地元木挽2名が加わって総勢22名であったと棟札に記録されております。
 御祭神としては、貞享の復興当時に於ける祭神=彦火火出見尊に配し祭った神々ありと伝わっておりましたが、判明しないので、正殿に彦火火出見尊、火須世理尊(ほすせりのみこと)、恵美須ノ神を鎮めたてまつり、脇殿に塩土翁尊(しおつちのおきなのみこと)、豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)、豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)、大山衹尊(おおやまずみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)、合わせて九柱の神々を鎮め奉っておりました。明治四年に、火須世理尊は川向神社へ、恵美須ノ神は川口の神祠へそれぞれ遷座申し上げ、現在は先述の七柱を斎き祀っているのであります。
 本社殿の竣工後、藩より社領60石が供せられ、神官も5名奉仕しておりましたがそれぞれに高禄を下しおかれて、一切が藩費で賄われておりました。ところが、このような境遇も維新政府にもとに進められた廃藩置県と共に自然事止みとなり、明治6年、社格も県社となりました。
 明治19年(1886)、氏子総代木原清右衛門らが島司新納中三宛に「益救神社昇格ノ儀二付請願書」を提出し、官幣社への昇格を請願致しましたが、氏子、社地不足により果たされませんでした。しかし、益救神社は、古代以来の伝統を持つ宮として、全島民の崇敬によって明治、大正、昭和と神威ますます盛んに発揚されていたのであります。

④大東亜戦争に敗色も濃くなった昭和20年7月15日、アメリカ軍爆撃機より直撃弾を受け、本殿はじめ各社殿は大破いたしました。とりあえず仮殿を設けて御神座とし、「此の社殿改築の重責を一日も早く果し、氏神の御心を慰め奉らんと、日夜忘れる暇なく」と記録には残されておりますが、敗戦、占領下のすべてに困難な情況のもとに月日が流れ、昭和28年に至ってようやく再建の準備にとりかかる運びとなりました。
 かつては官費によって賄われていた神社も今や全てを自費で賄わねばならず、境内地の一部と杉造林地内の杉二千余本とを売却、氏子諸子よりの浄財と合せて工事資金とし、29年7月1日起工、建築資材はすべて屋久杉を用い、同11月20日、総屋久杉造りの壮麗な社殿が完成いたしました。
 こうして、益救神社は戦災からも完全に復興改築され、御神徳いよいよ高く万民を照し、今日に至っているのであります。

一、祭典並に特殊神事
  
  ・歳旦祭(1月1日)
  ・七種祭(1月7日)
  ・月待祭(旧暦1月23日)前年に住宅を新築した人達が向う三年間、月の出を待っ
       て参拝する。併せて海上安全、出郷者の安全祈願を行います。
  ・例大祭・神幸祭(4月29日)
  ・六月灯祭(7月15日)子供たちの画いた絵灯籠が境内一杯に奉納されます。
  ・新嘗祭(11月23日)
  ・除夜祭・益救神太鼓年越祭(12月31日)1年の罪・穢を祓うとともに、新年の幕
               あけを祝して益救神太鼓が奉納されます。

一、宝物

  文久3年造営当時島津家より寄進された久光公直筆の社号扁額および桧造り神輿を
  はじめ、黒漆塗金蒔絵太刀二振、木製狛犬一対、出目満徳作の翁面・姫面各一個、
  錫製鶴首形瓶子・同水玉型瓶子・木製黒漆塗瓶子各一対などがあります。

                                   『由緒書』

アクセス

〇鹿児島空港より空路40分屋久島空港に到る。空港より車15分。

〇鹿児島港よりフェリー3時間50分、トッピー約2時間で宮之浦港に入る。港より徒歩12、13分。


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