式内社とは

『延喜式』(※1)神名帳に登載された神社。古代、神祇官(※2)では官社を記載登録した名簿が作られていた。この名簿を一般に官社帳あるいは神名帳と呼んでいる。『延喜式』の九巻十巻は当時の神名帳が掲載されているため、『延喜式』神名帳と呼ばれているが、これに記載されている神社が式内社である。『延喜式』の内に記載された神社の意であろう。単に式社ともいった。つまり式内社とは10世紀前半『延喜式』編纂段階で官社として認定されていた神社をいう。その数は、社数で2861社、座数で3132座あった。

これらの神社にはさまざまな種別があったが、その第一が官幣社と国幣社の別である。式内社すなわち官社はすべて神祇官で行われる陰暦2月の祈年祭で幣帛(※3)を受けた。その方法は奈良時代には各社の祝部が、神祇官に参集して幣帛を受け取るという班幣方式であったが、平安時代に入り延暦17年(798)に従来同様、神祇官から幣帛を受け取る社とその社のある国から幣帛を受ける社とに分けられた。前者を官幣社と、後者を国幣社という。『延喜式』段階すなわち式内社では官幣社は573社737座、国幣社は2288社2395座あった。この分裂は遠隔地の神社の祝部の上京困難による措置というがその背景に律令体制の変質、官社制そのものの動揺という事態があったことは明らかである。式内社はまた大社と小社に分けられている。大小の別は形式の上では祈年祭の班幣にあたりその社の幣帛が案(物をのせる台)の上に置かれるか案の下に置かれるかにあったというが、その別が定められるにあたっては、その神社の社勢が考慮されたであろう。

以上の区別は式内社全社に対して付けられていた。すなわち、すべての式内社は、官幣大社、官幣小社、国幣大社、国幣小社のいずれかに分類されていたわけである。数および分布状況からいえば、官幣大社は198社304座で京畿内中心に全国に散在したが、現在の北海道はもちろん九州には置かれなかった。官幣小社は375社433座で畿内のみにあった。国幣大社の155社188座、国幣小社2133社2207座はともに畿外に分布していた。これらの社格により祈年祭の幣帛の品目数量には差が設けられていた。さらに、式内社中には祈年祭のほか月次祭、相嘗祭、新嘗祭などの幣帛に預かるもの、名神の称を与えられて名神祭の対象とされるものがあり、神名帳の社名の下にその旨が記されている。

式内社は官社制の形骸化とともに中世には実態は失われた。しかし、名称自体は一種の社格として残り、今日でもかつて式内社であったとされる神社は重要視される傾向がある。なお、現存の式内社については近年、全国的調査が行われその結果が、『式内社調査報告』として刊行されている。

『神道辞典』(編集 國學院大學日本文化研究所)より

  • ※1 律・令・格の施行細則を集成した法典。醍醐天皇の命により延喜5年(905)に編纂を開始、康保4年(967)に施行された。
  • ※2 律令制下、神祇行政をつかさどった役所。
  • ※3 広義には、神に奉献するものの総称であり、「みてぐら」とも「幣物(へいもつ)」とも呼ばれる。幣帛の品目や数量は、祭祀の種類により、また神社によって異なるが、「延喜式」祝詞の条には、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などの品目が記されている。
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